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「ポスト近代社会の進化論:社会の発展は自生化主義で見よ」

『理論戦線』no.80, 2005 Summer, pp.124-145.

橋本努

 

 

1.ポスト近代と進化論の地平

 「ポスト近代」と呼ばれる現代社会において、「進化」という発想は一つの地平を提供しているように思われる。急進左翼から新保守主義に至るまでの現代の諸思想は、近代主義者たちが想定してきた「大文字の理性による統治」なるものを、創造的に超え出ようという点で共通するからである。ポスト近代、すなわち「近代の次に来る時代」という歴史認識において、私たちが共に立てている規範的な問いとは、およそ次のようなものであろう。すなわち、

 

「意志(すなわち意図と忠誠の複合体)の国家中心的な編成と、財配分の設計主義的な編成にもとづく近代社会のモデルを超えて、このモデルよりもさらにすぐれた発展(すなわち進化)を可能にする社会の制度条件とは何か。また、そのような社会において要請される倫理や規範とはどのようなものか」

 

という問いである。単純化をおそれずに言えば、二〇世紀中頃までの近代社会は、理性によってあらかじめプログラムされた目的や意図の、階層的で構築的な実現を求めてきた。これに対して、ポスト近代と呼ばれる私たちの社会は、そのような目的や意図を超える方向に、社会と個人の関係を組みかえようとしている。「進化」という観点からみると、ポスト近代社会における制度的な問いとは、「人間の理性的制御を超える社会の進化はいかにして可能か」、となるだろう。ポスト近代の諸思想は、理性によって制御することのできない「進化」の次元を、うまく活用することに関心を寄せているのである。

すでにこの問題に対して、さまざまな理論と実践が生み出されているが、本稿では「自生化主義」という視点に立って、応答を試みたい。これまで私が論じてきた自生化主義(あるいは成長論的自由主義)の観点から、ポスト近代社会における進化の問題に応じてみたいのである。

 

1−a.戦後近代主義の社会モデル

最初に、ここで定式化した問いの意味を、もう少していねいに説明しておこう。「近代社会のモデル」というのは、より限定して言えば、戦後の近代主義者たちが理想とした社会の構想であり、日本では、丸山真男や大塚久雄といった論客によって論じられてきた諸理想の一側面である。その特徴を一つの理念型としてまとめてみると、次のようになるだろう。

 

戦後近代主義の社会モデル:

(1)【市民社会の倫理】中間集団は「自発的結社(ゼクテ)」として、また国家は「合法的に統治される非自発的成員の共同体(アンシュタルト)」として、それぞれ啓蒙された理性によって運営される組織へと作りかえる。またいずれの組織においても、封建道徳に代わる市民社会の倫理を重視し、理性的な議論と主体的な政治活動によって、民主的な意思決定をすることが目指される。システムの下部組織においては、各種の産業団体、労働組合、生活協同組合などの組織形成が奨励され、また上部組織においては、反権威主義と啓蒙的理性による自己批判が奨励される。そして制度全体としては、産業民主主義(コーポラティズム)にもとづく政治経済の民主的な管理が目標となる。

(2)【忠誠心の形成】列強諸国と張り合うだけの集団的精神力を養うために、国民の終極的な審級である国家理性に対して、人々の忠誠心とコミットメントを集中的に捧げるようなシステム(精神の全体主義)を形成する。例えば、与えられた憲法を積極的に内面化して掴み取る「民主主義の永続革命」や、民族精神のエネルギーを合理化する装置の形成(国民エネルギーの動員による国家運営)、あるいは、護送船団方式のもとで、諸企業が政府の命令系統に従うという経済倫理の形成が目標となる。また、忠誠心の形成は、アトミズムや怠惰な生活や土着の慣習を克服するものであり、そこにおいては個人と集団の弁証法的な関係において、自律と共同性の両方が達成される。

(3)【設計的理性の編成】中央当局は、各階層構造において意思決定を担う人々が主体的かつ理性的に判断することができるように配慮しつつ、その判断が結果として国家全体の成果を最大化するように、制度を設計する。経済においては、市場という不安定な財配分の制度に代えて、厚生主義の諸前提に基づく平等かつ効率的な財配分のシステムを構築することが目標となる。また政治においては、代表民主主義とタウンシップの形成によって、意思決定の合理的かつ階層的なプロセスを構築することが目標となる。そしてこれらの目標を実現するために、情報システム(メディア)を中央で管理し、同時に、設計的な理性を発揮する人材を育成・選抜することが必要となる。

(4)【規律訓練権力の活用】人々の欲望や惰性的心性を無批判に肯定する自由社会に代えて、人間の内面に規律とエートスの宿る社会を理想とする。そのために、生産力と身体技法において、人々を主体化すると同時に、国家の理念に仕える従順な身体へと練成する。ここで主体化とは、欲望の抑制と怠惰な身体の調教によって、超越的な規範を内面化することである。例えば、学校では試験勉強を中心に、学習の規律力を鍛えつつ、人々がシステムの要求に対して自発的な活動の意志を形成するように仕向ける。また経済においては、各人が即時的な消費欲を抑制し、中産階級の勤労エートスを身につけることによって、個人の生活水準と国富の両方を増大させる。こうして人々の人的資源は、国家の繁栄のために総動員されることになる。

 

 以上の四つの特徴、すなわち、「市民の倫理」、「忠誠心の形成」、「設計的理性の編成」、および「規律訓練権力の活用」は、理念型として構成される「戦後近代主義の社会モデル」の特徴である。厳密に言えば、市民の倫理にもとづくコーポラティズムは、意思決定の効率性において、設計的理性にもとづく経済管理と両立しない。また、忠誠心の形成は、主体を個別化する原理を持たない点で、規律訓練権力と両立しない。しかしいずれにせよ、これら四つの特徴を複合した社会像は、いわゆる「大文字の理性」から導き出される社会の理想であり、人々の設計的な理性が、国民国家を基礎として、合理的かつ強力に展開された場合に実現しうる理想を描くものである。別言すれば、このモデルは、人々が「種」を基礎として社会を形成する際に、最も理性的、かつ最もエネルギッシュに行為してはじめて、実現するものであろう。

他方で「戦後近代主義の社会モデル」は、人間の理性が進化する途上で可能となった一つの理想である、ということができる。人類史の発展というものが、理性の進化とともに、最終的には、「世界連邦政府」を形成することによって終結する、と考えてみよう。すると「戦後近代主義」のモデルは、その途上に描かれた、現時点における最高の理想であるということになる。そしてもし、この歴史の進化が「大文字の理性」の発展によって可能になるとすれば、私たちはまず、戦後近代主義の社会モデルを徹底的に追求することが、現時点における最善の目標となるであろう。

 しかしポスト近代と呼ばれる現代社会において、戦後近代主義のモデルは、もはや社会の理想を描いているようには思われない。私たちはむしろ、大文字の理性によって想定される諸価値――市民社会、忠誠心、設計的理性、規律訓練権力――を超えて、もっとすぐれた社会制度を発展させることができるのではないか、と感じているからである。ニーチェ的に言えば、私たちは、人間の神的な要素としての「大文字の理性」を用いずに、神なき超人たちの社会を創造することができるかもしれない。大文字の理性を拡張する方向に「世界連邦政府」を展望するのではなく、まったく別の仕方で歴史の進化を担うことができるかもしれない。

では、戦後近代主義の社会モデルを超えて、私たちはいかなる社会の理想を描くことができるのであろうか。この問題は大きすぎて、にわかに答えることが難しいかもしれない。しかし、検討するためのヒントはたくさんある。そこで、以下では次のような「蜂の寓話」を用いて、考察をすすめてみよう。

 

1−b.ある蜂の寓話

戦後近代主義を乗り超えるという課題を、次のような蜂の寓話を用いて、理解してみることにしよう。蜂の世界が近代化し、さらにポスト近代化するとどうなるのか、という想像力を働かせてみるのである。

蜂の世界において、多くのハチたちは、働きバチとしての一生を過ごすことになる。しかし働きバチは、生殖行動をおこなわない。彼らはひたすら働くのみで、しかも、女王バチと比べると、五〇分の一の寿命しかない。夏のある暑い日には、蜂の巣を涼しくするために、羽を使って一生懸命に風を送ることが義務となる。また、気温がさらに高くなれば、働きバチは、舌の上に水を一滴ずつ置いて、その水を蒸発させながら巣の内部を冷却しなければならない。こうして働きバチは、いわばハチ世界の労働者として、集団(=種)の再生産に献身する。生物学的に言えば、働きバチは、ハチ社会の集合的な遺伝子(ミーム)に従って、自己の生命よりも集団の生命維持を優先するのである。働きバチには、すでにそのような行動がプログラムされており、それは生来的なものであれ獲得されたものであれ、ほとんど変更の余地はない。

しかしここで、蜂の世界に次のような進化が起こったと想定してみよう。働きバチの労働によって生産力が増大し、そしてあるとき突然、ハチたちのあいだに「反省的な理性」が芽生える、と想像してみるのである。

その理性は、ハチたちの啓蒙的な思考を促すものであり、生産力の発展に応じて、蜂が暮らす巣のデザインを合理的に変革しうることを告げるであろう。そしてハチたちは、反省的な理性の示すところに従って、先に描いた「戦後近代主義の社会モデル」に近い社会を構築しようとするだろう。もっともハチのなかには、いまだ「反省的な理性」を手にしていない者もいる。だから最初の変革は、すでに啓蒙されたハチたちが、いまだに啓蒙されていないハチたちを教育することから始まるであろう。そして啓蒙の教育が成功するにつれて、ハチの世界は、近代社会の理想を少しずつ実現していくだろう。

それからしばらく経って、第二の変化が起こることを想定してみよう。ハチたちはさらに生産力を増大させて、第一の変化によって獲得した理性を、さらに反省的に捉え返すための「第二の知性」を手に入れる。そしてこの第二の知性は、しだいに構築されつつある近代社会を批判的に捉え返すことに成功するのである。この第二の知性を獲得したハチたちは、やがて近代社会の理想に対して、深刻な疑念を抱くようになるだろう。いったい、近代社会の理想は最善の理想なのであろうか、と。こうした疑念が広がるにつれて、社会はしだいにポスト近代化する。

「ポスト近代社会」とは、ハチたちが「第二の知性」を用いて、近代社会の理想を問題化する段階である。しかしハチたちは、この問題化によって、何か新しい理想社会をデザインすることに成功したわけではない。ハチたちは、どのような社会が理想であるのかについて、大いに迷っている。はたして、近代社会を反省する第二の知性は、私たちをどこに導くのだろうか。近代社会のモデルを超えるために、私たちは第二の知性を用いて、いったいどのような制度を構築すべきなのだろうか。

あるハチは、次のように応じるであろう。すなわち、「私たちは理性のさらなる進化を待ってから、その後で、善き世界について考えよう」と。歴史の法則史観にしたがえば、理性がさらに進化すれば、新たな社会モデルを築くことができる。それゆえ、さしあたって試みるべきは、理性が進化すればどのような社会が可能となるか、という問題を詩的言語によって夢想することであり、また、社会の想像的な構想力に期待を寄せることである。もっとも、私たちは理性と構想力の不足ゆえに、オルターナティヴの陥穽に甘んじなければならない。そしてこれまで築いてきた近代社会の理想を、とにかく保持しなければならない、ということになる。

別のハチは、次のように主張するかもしれない。私たちは、自らの理性が進化することを待つのではなく、現時点で可能な問いを発しなければならない。すなわち、「私たちはいかにして、予測不可能な理性の進化というものを、促進することができるだろうか」と。現時点において理性がどのように進化するのかについては分からないが、しかし理性が進化するための触媒となるような社会条件を構想することはできる。それゆえ私たちは、そのような諸条件について制度論的に考える必要がある、と。このアプローチは、私が「自生化主義」と呼ぶものに他ならない。

 しかし、第三の考え方として、別のハチは次のように主張するかもしれない。すなわち、私たちの理性には限界があるのだから、現在の社会を変革するためには、とにかくランダムに、あるいは逸脱的に行動してみて、そのなかで新たな社会の契機を発見する他ないのだ、と。アナキズムの主張である。もっともこの種のアナキズムは、試行錯誤による選択淘汰のプロセスに訴える点で、先の自生化主義に包摂される可能性がある。自生化主義とアナキズムはともに、多元性と撹乱がそれ自体として進化の条件となるとみなす点で、意見が一致する。

 以上、ポスト近代社会においてハチたちが発するであろう三つの主張を挙げてみた。これらの主張はいずれも、社会の進化方向をめぐって、とりあえず「理性」を括弧に入れて考える、という点において共通する。ポスト近代社会において、理想とされる社会の探究は、先に示した「大文字の理性」と「戦後近代主義の社会モデル」を、いったん「否定」するわけである。では、この否定のプロセスの後に見出される社会の新たな構想とは、いかなるものであろうか。

 

1−c.「理性」を括弧に入れる

 以上に描いてきた蜂の寓話は、私たちの社会を戯画的に表現したものであるから、この先の物語は、私たち自身が引き受けなければならない。現在、私たちが問うべきは、次のような問いである。すなわち、ポスト近代社会において、「大文字の理性」と「戦後近代主義の社会モデル」を否定する場合、いかにして社会の進化を考えることができるのだろうか。

大文字の理性を否定する場合、私たちは同時に、人間を他の動物から区別して特徴づける神的要素を否定することになるだろう。しかし、超越的-神的な思考をもたない人間の社会とは、いったいどのようなものであろうか。人間が超越的な理性を否定して、理性が内在的にのみ働くような状態とは、いかなるものであろうか。おそらく、超越の否定によって可能となる理想は、人間が他の生物と共有している「生命の知恵」によって、社会を統治する状態であるだろう。ポスト近代社会の人間は、大文字の理性によって他の生物よりもすぐれた生を営むのではなく、むしろ、他の生物たちと同程度に、すぐれた生命の営みをすることを求めている。

そして実際、ポスト近代の諸思想はこれまで、人間が生物としてもっているさまざまな知恵を参照しながら、新たな社会の構成原理を模索してきた。例えば、ハイエクのいう「自生的秩序」は、生物の進化過程において取捨選択される行動パタンの自生的な発展に着想を得るものであり、超越的な理性をいったん括弧に入れたうえで、すぐれた社会の構成原理を模索している。あるいは、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、超越的な理性を否定して、さまざまな欲望の水平的な増殖過程による社会の生成秩序を描くものであり、彼らの用いる「リゾーム」概念は、生物の生態を人間社会の理念に持ち込むものであろう。こうした知の探究はいずれも、生命の知恵から出発すると同時に、人間の生が特権的であるという考え方を否定する点で一致する。

かつてウィルス学者の川喜田愛郎は、生命の営みを分類して、「ひたすら生きる」、「たくみに生きる」、「わきまえて生きる」、そして「よく生きる」という四つの類型を用いたことがある。川喜田によれば、このうち、「よく生きる」というのは人間に固有の営みであり、他の三つの生き方は、生物全般にみられるというが、この分類に即して言えば、ポスト近代の理想は、人間に固有とされる「よく生きる」を否定して、他の三つの生き方を称揚するものである、と言えるだろう。

例えば、生物が「ひたすら生きる」というのは、細胞が増殖する過程であり、この営みは、ドゥルーズの『差異と反復』における反復-異変の活動や、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に描かれるリゾームの生態に対応する。また、生物が「たくみに生きる」とは、新しい生命が誕生する過程や、あるいは異物を処理する免疫系の活動にみられる営みであり、これは例えば、ラカンやフーコーの自己論を政治的に展開する諸思想に対応するであろう。そして「わきまえて生きる」とは、生物が、個体間および集団間において、他の生物や環境と共生する営みであり、これは、ダーウィン主義に異説を唱えた今西錦司の共生進化説、あるいは、この学説に共振する「反競争」の諸思想に対応する、とみることができよう。

このように、「ひたすら生きる」「たくみに生きる」「わきまえている」という三つの営みから人間社会の理想を考えてみると、私たちは、人間に固有の「大文字の理性=超越的理性」を前提としなくても、善き生を営むことができるかもしれない[1]。振り返ってみると、戦後の近代主義者たちは、「よく生きる」という人間の理想を、大文字の理性を最大限に用いることによって実現しようとしてきた。これに対してポスト近代の諸思想は、生物の生態から、社会の構成原理と生き方の両方を学ぼうとする。では具体的に、どのような生き方の理念が、ポスト近代社会の規範的理想となるだろうか。また、どのような価値理念が、戦後近代主義の社会モデルを超える契機たりうるのだろうか。

 

 

2.戦後近代主義から自生化主義へ

 ポスト近代社会において、近代を反省する第二の知性を手に入れた私たちは、生物の知恵に学ぼうとしている。というのも、人間は他の生物よりも賢いのではなく、他の生物と同じくらい賢く生きることができる、と考えられるからである。もちろん、「他の生物と同じくらい」といっても、それは私たちの生物観に依存している以上、これを額面どおりに受けとることはできない。また、ポスト近代においては、私たちは反省的な知性によって近代を対象化しながらも、なぜ他の生物と同様に内在的な理性を用いることができるのか、という難問が生じる。こうした問題に答えるためには、私たちは生物学の知見に還元されないような、一定の思想観点を示す必要があるだろう。そこで私は「自生化主義」という観点から、この問題に接近してみたいと思う。

 

2−a.進化の倫理

 私たちが乗り超えるべき批判対象は、はっきりしている。戦後近代主義の社会モデルである。このモデルは、「市民の倫理」、「忠誠心の形成」、「設計的理性の編成」、および「規律訓練権力の活用」という四つの特徴から構成されているが、これらの四つの特徴を超えようとする前に、まず、このモデルを否定することによって生じる悪しき事態について、想像力を働かせておきたい。例えば「市民の倫理」を否定することによって、権威主義体制の出現を容認するという事態。あるいは、「忠誠心の形成」が理性と結びつかず、一部の狂信的な忠誠主義者が国家を運営するという事態。「設計的理性の編成」が機能せず、年金制度や最低限の再配分制度までもが麻痺するという事態。「規律訓練権力の活用」が機能せず、学級崩壊や犯罪の増加に悩まされるという事態、などである。私たちは戦後近代主義を否定する際に、こうした事態をまず警戒しなければならない。

 ではポスト近代社会が戦後近代主義を超えるために掲げうる価値理念とは何か。私は自生化主義という観点から、次のような四つの価値を掲げてみたい。

(1)【水平的なネットワーキング】:市民社会の倫理は、人々の自発的な活動に基づく組織の形成を理想としていた。しかし進化論的にみるならば、自発的な組織は、必ずしも存続可能性が高いわけではない。私たちは、自己の生存可能性を一つの組織に賭けるのではなく、むしろ複数組織の所属によって、劣位の組織を切り捨てる技術を身につけなければならない。そのためには、さまざまな情報に反応しつつ、自発性の程度をその都度調整しながら、さまざまな組織をネットワーキングする必要がある。またその活動は、それ自体が複数のセイフティネットを形成していくことに資するであろう。社会において生活者たちが逞しく生きるための知恵は、国家に依存しない水平的かつ多様なネットワークを築くことにある。

(2)【複数の慣習に従う知恵】:国民国家を理性的に運営するためには、人々の忠誠心を国家に集中させて動員する必要があった。しかし進化論的にみれば、国家の正統性が安定するならば、人々の忠誠心や精神的関心の方向性は、分散化-多様化する傾向にある。社会が一定の複雑性を達成するならば、社会秩序の形成は、多様な慣習がもつ秩序形成力に依拠する必要があるだろう。そして諸慣習の生成-消滅の過程において、人々は自らの生存を脅かさずに、慣習の取捨選択によって社会制度を進化させることができるだろう。もっとも、慣習に従う行為は、設計的な理性によって最適化することができない以上、慣習を取捨選択する能力についても、進化の過程で獲得しなければならない。そのような能力は、言語能力や法的判断力と同様に、共有された暗黙知の次元において生成すると考えられよう。

(3)【揺らぎをもたらす理性】:社会が一定の複雑性を獲得するならば、設計主義的な理性によって制度を構築するのではなく、むしろ、理性の揺らぎから自己組織的な秩序形成を展望することができるだろう。例えば、理性は、「規範(ノーマル/アブノーマルの二分法)」の存立根拠を疑い、アブノーマルなものへの寛容を示すことによって、そこから新たな進化の過程を期待することができる。また理性は、与えられた問いに確実な答えを出すのではなく、問いそのものを増殖させて、答えの揺らぎから進化を期待することができる。同様に理性は、消費社会におけるアイデンティティの存立基盤を疑い、「自分探しゲーム」を演じることによって、嗜好と選好の多元化と可変性を駆動することができるだろう。デカルトにおける方法的懐疑が「自律的な主体」を構成する作用をもつとすれば、ポスト近代における方法的懐疑は、「揺らぎを通じての秩序と進化」をもたらす、と考えられる。

(4)【デュナミスの美徳】:規律訓練権力による社会秩序の形成は、過度の抑圧作用によって人間がもつ多様な潜在可能性(デュナミス)を萎縮させてしまう。しかし進化論的に言えば、社会は多様な潜在可能性を許容する方向に発展することによって、自らの適応度を増大させることができる。木村資生の「進化中立説」によれば、生物は、自然淘汰に有利ではない遺伝子の変異を、多様かつ潜在的に保持することによって、起こりうる環境の変化に対する適応度を上げている。また、二〇〇三年に完了したヒトゲノムの解読によれば、生物の進化は、遺伝子の進化から適応度の進化へ、すなわち、さまざまな環境変化に適応しうる潜在的可能性の増大へと移っている。こうした知見に従えば、人間社会の進化は、多様な潜在能力を高める方向に展望することができるだろう。また試行錯誤によるデュナミスの増大は、それ自体として美徳であるとみなされよう。

 以上、ポスト近代における価値理念として、「水平的なネットワーキング」、「複数の慣習に従う知恵」、「揺らぎをもたらす理性」、および「デュナミスの美徳」というものを挙げてみた。これら四つの価値理念は、必ずしもポスト近代社会における主要な価値というわけではない。これらは「自生化主義」の観点からみた場合の価値理念であり、大文字の理性を用いずに、社会と理性を同時に進化させるための倫理である。最初の三つの価値は、バリエーションと選択圧力の増加による進化への期待である。そして第四番目の価値は、潜在的な変異の増加による適応進化への期待である。いずれの期待も、しかし理性が進化する方向については、何も述べていない。自生化主義の倫理は、社会と理性の進化を期待するとしても、その特定の方向を意志しないからである。自生化主義は、むしろ、進化を促進するための社会的条件がよりよいものとなることを、「成長」の基準としている。

 

2−b.自生化主義の進化論

 では、以上に描いてきた自生化主義の倫理は、いかなる社会変革の構想と結びつくであろうか。すでに私は、いくつかの構想を試みているが、「戦後近代主義」との対比で大まかに言えば、変革の方向は、「設計主義から市場モデルへ」ということになるだろう。ただし自生化主義は、「市場における神の見えざる手」の働きが十分であるとは考えていない。自生化主義は、自生的に生成してきたものをそのまま肯定するのではなく、むしろ諸物の自生と進化を作為的に条件づけることに関心を寄せているからである。以下ではこの点について、進化論との兼ね合いで検討してみることにしたい。

 「神の見えざる手」に基づく市場社会は、ある意味で、ポスト近代社会の理想であるということができる。というのも市場社会においては、人間の超越的な理性が不用とされ、それでいて一定の秩序が達成されるからである。しかし自生化主義の観点からすると、「神の見えざる手」は、社会の進化にとって不十分である。というのも「見えざる手」は、選択圧力の負荷と適応度の向上において、不十分な作用しかもたないからである。従来、神の見えざる手は、それが非効率的な財配分と秩序の不安定性をもたらすという点で批判されてきた。そしてこの見えざる手に代えて、「政府の見える手」(すなわち設計主義の理性)を代用することが望ましいと考えられてきた。これに対して自生化主義は、「神の見えざる手」が進化論的にみて不十分である、と考える。「見えざる手」は、それ自体としては市場の進化を促すものではない。むしろ、現時点において可能な、進化論的な安定性(調和)を導く秩序化作用であろう。

ここで「進化論的な安定性」とは、例えば、アクセルロッドの「しっぺ返し戦略」や、進化ゲーム論における「タカ派」と「ハト派」の混合戦略のように、いくつかの戦略が競合する中で、進化の末に一定の戦略(ないしその組み合わせ)が安定的に選択されるような状況である[2]。こうした進化論的安定性を探究する諸理論は、しかし重大な盲点をもっている。進化における「バリエーション(選択肢)の多様化」や「デュナミス(潜在的可能性)の増大」という問題を扱うことができない、という点である[3]。これに対して自生化主義は、「バリエーション」と「デュナミス」の促進が重要であるとみなし、選択圧力と適応度という二つの関心から、社会制度を条件づけようとする。自生化主義は、いわば社会の中に安定的ではない要素を生み出すことによって、そこから秩序の自生的な進化を期待するのである。この点について、スチュアート・カウフマンの次のような発言は示唆的であろう。

 

「もし凍結した秩序状態に系が深くはまりすぎてしまうと、柔軟性が足りなくなって、成長に必要な遺伝的活動の複雑な連鎖が調和的には働かなくなる。逆に、もし気体的なカオス状態に系が深くはまりすぎてしまうと、十分に秩序化することができないであろう。カオスの縁――秩序と意外性の妥協点――の近辺にあるネットワークが、複雑な諸活動を最も調和的に働かせることができるし、また進化する能力を最も兼ね備えているのである。」(スチュアート・カウフマン[1995=1999]『自己組織化と進化の論理』日本経済新聞社、56頁)

 

カウフマンのいうように、進化の源泉がカオスの縁にあるとすれば、私たちはそのようなカオスの縁を社会の中に作為的に生み出すことによって、進化を促すことができるかもしれない。そして自生化主義は、こうした考え方を採用する点で、無作為を重んじる自生的秩序論とは区別される。一般に「自生的秩序」というと、過去から未来にかけて、秩序が次第に生成していくような事態をイメージされるかもしれない。これに対して秩序を作為的に自生させようとする「自生化」主義は、秩序の完成を未来に求めるのではなく、実は、過去に求めている。かつてアンリ・ベルグソンは『創造的進化』において、秩序は過去に見出され、未来は創造に開かれていると主張したが、自生化主義もまた同様の発想に立っている。

そしてこの「過去志向の秩序観」は、ハイエクの場合にも当てはまる。ハイエクによれば、文明とは、学習された行動ルールの伝統であり、それは決して発明されたものではない。しかも文明社会において、実際に行為している個人はたいてい、その機能を十分に理解してはいない。人は、知的だから新しい行動ルールを採用したのではなく、むしろ新しい行動ルールをたまたま採用したからこそ、知的になったと考えられる。それゆえ、諸々の行動ルールからなる社会の秩序はつねに、後知恵によって発見される、ということができよう。しかもその秩序は、「すでに従った」という過去形において、私たちの後方に発見されるのである[4]

このように後知恵によって後方に発見される秩序というものを、「後見的秩序(バックワード・ルッキング・オーダー)」と呼んでみよう。自生化主義は、ハイエクの自生的秩序論を、この意味での「後見的秩序」として理解する。例えばハイエクは、過去の歴史を線形的に発生してきた秩序として描くものを「構成的歴史」と呼び、この種の記述方法を擁護しているが、その理由はおそらく、構成的歴史が「後見的秩序」を生み出し、そしてその秩序観が現在のシステムに一定の正統性を与えるからであろう。過去に見出された後見的秩序は、現在の秩序を正統化し、そして構成する力をもっている。

自生化主義は、この後見的秩序を基礎として、新たな社会構想を企てる。それは決して未来社会の秩序をあらかじめ描くのではなく、むしろ未来の社会を醸成する庭師の観点に立って社会を構想する。「庭師」の理性は、庭の手入れによって、そこから生じる未来の秩序を、後見的なものとして発見するのである。自生化主義の庭師は、庭の帰結をデザインするのではなく、予期しえない進化を含めて、植生の生成過程が自生的であることに喜びを見出している。彼は、「よりよい庭」を目指して介入するが、しかし何がよりよい庭であるのかについては、つねに問題化しながら、生成の過程に関わりつづける。

同時に、自生化主義の庭師は、土壌のもつ肥沃な可能性を高めたり、そこに生息する生命の適応度を高めたりすることに、関心をもつだろう。土壌の肥沃さは、潜在的に生成しうる生命の多様性を象徴する。また生命の適応度は、生命が多様な環境に適応するために、潜在的な変異の数を殖やすことであり、これは変異の多様性を意味する。そしていずれの多様性も、生命が「他でありえた可能性」において価値をもつということ、言いかえればデュナミスの美徳をもつことを表している。自生化主義の庭師は、「デュナミスの滋養」を企てる点において、たんなる「神の見えざる手」の信奉者とは区別される。庭師は社会のよき教育者であり、進化を条件づける起業者なのである。

 

2−c.無駄の意味

 進化を企てる、というのは途方もないことかもしれない。先に私は、戦後近代主義が前提とする「大文字の理性」を括弧に入れて、ニーチェ的な超人の暮らす理想社会というものを展望しうるのではないか、と述べた。しかし、これまで論じてきた自生化主義の倫理は、もっと慎ましいものにすぎない。「水平的なネットワーキング」、「複数の慣習に従う知恵」、「揺らぎをもたらす理性」、あるいは「デュナミスの美徳」といった価値は、いずれも日常において実行可能な、ポスト近代社会における世俗の倫理であろう。

 しかし、こうした日常の倫理によって進化を企てようとすると、私たちは「進化の無意味化」という問題に直面する。例えば、「水平的なネットワーキング」の倫理は、コミットメントすべき価値というものを相対化することによって、意味の希薄化をもたらす可能性がある。「複数の慣習に従う知恵」は、あまり意味があるとは思えない慣習に従うことまでも正当化してしまう。また、「揺らぎをもたらす理性」は、理性の不安に苛まれるかもしれない。あるいは「デュナミスの美徳」は、「無意味なことをたくさん実践せよ」と説く以上、無意味化の問題を避けることは不可能である。そもそも私たちは、進化を意識的に企てるということに「意味」を見出すという、日常倫理をもち合わせていない。それゆえ「進化の無意味化」というのは、ある意味で当然の帰結であるだろう。では私たちは、こうした「無意味化」を、いかにして「有意味な実践」へと導くことができるのだろうか。

 「デュナミスの美徳」というものを再考してみよう。進化論的に考えてみて、「社会は人間の多様な潜在可能性を許容する方向に発展する」とみなすならば、人々は自らのデュナミスを増大させ、たえず試行錯誤することが、それ自体として美徳となる。しかしこの美徳は、社会にとって、あるいは自分にとって、膨大な無駄を生きることを意味しており、絶えず無意味化の危機に直面する。

 この問題を、抗体の生態を例にとって考えてみよう。人間の体内には、外から入ってくる異物を認識するための「抗体(受容体)」がある。それは約一〇〇万種から一億種の細胞(B細胞とT細胞)からなるもので、人間は膨大な抗体をもつことによって、いつ来るか分からない抗原に対応する潜在的適応度を高めている。しかし、ほとんどの抗体は、それが作られても抗原に出会うことはなく、約二日間で死んでいく。つまり、人は潜在的な脅威に対応するために、無数の無駄な抗体を作り出しているのである。ごくまれに、例えばマラリア熱のような病気が流行することがある。すると、多くの人々はこれに感染して死んでしまうが、しかし偶然にも、以前から別の抗体(ヘモグロビン)をもっていた人々は、自然淘汰の過程で生き残ることができる。もしマラリアが流行しなければ、その抗体をもっている人々は、たんに生命の機能が低い存在であるとみなされたであろう。歴史的にみてマラリアの抗体は、酸素の運搬能力が多少落ちる異常ヘモグロビンによって作られてきたからである。

 以上の事例から言えることは、私たちは「種」として、あるいは「類」として、現実に対して過剰に適応しようとすることよりも、潜在的に可能な状況に対して抗体を創り出すことの方が、進化論的にみて適応度が高い、ということである。高等生物の遺伝子系には、一見すると何もしていないDNAがたくさんある。例えば、イントロン、スペーサー、繰り返し配列、偽遺伝子、ウィルスを組みこまれた残骸、あるいは、重複・増幅した遺伝子などがそれである。こうした遺伝子は、人間の全DNAの約九五%[5]であるといわれるが、それでもなおこれらの遺伝子が進化の過程で大量に継承されてきたという事実は、「進化論的な合理性」というものが、現実への適応を高めることではなく、むしろ潜在的な危機に対する適応度の上昇である、ということを物語っているであろう。しかし、この進化論的な適応は、実際には役立たない潜在能力(デュナミス)を多くもつことであり、その能力はほとんどの場合、何ら任務を果たさずに死を迎えることになる。

こうした遺伝子の生態を、文化の領域にアナロジカルに拡張してみると、私たちの文化的営みの九五%は、現実には役立たないが、しかし潜在的な危機に対応するものである、ということになるだろう。私たちの文化的振舞のほとんどは、なんらかの危機においてはじめて意味を獲得するのであり、私たちはそうした危機に備える存在である、ということになろう。そしてこの「危機に備える」営みが、「デュナミスの美徳」に他ならない。デュナミスの美徳とは、実際には、大いなる「無駄」であり、また「浪費」である。しかしそうした無駄や浪費は、「種」ないし「類」の進化のために貢献する。各人が自分で「意味がある」と思っていることをエゴイスティックに実践する社会よりも、「意味がない」と思われることがたくさん試みられる社会のほうが、進化論的適応度が高いと言えるだろう。私たちが「無駄」や「浪費」に意味を与えることができるとすれば、それは種や類の進化的適応にとって意味がある、と説明することができるであろう。

しかし以上のような説明は、生物の世界には無駄や浪費が存在しないとする「反ダーウィン主義」の秩序観と対立する。オークローズ&スタンチューの『新・進化論』(渡辺政隆訳、平凡社[1987=1992])は、近年の生物学におけるさまざまな知見を総合して、反自然淘汰説の秩序観を提示した野心作である。本書によれば、われわれは(ネオ)ダーウィン主義的な世界観に代えて、自然のなかに、次のような諸々の知恵を見出すことができるという。例えば、「生物は他の生物との競争=戦争状態に置かれているのではなく、協調関係を根幹とした一つの協同体となっている」、「自然は芸術としての一つの主題をもっており、その中で多様な生物たちに美しい造形が与えられている」、「自然は、浪費的な試行錯誤をするのではなく、もっと効率的で経済的なやり方で作動している」、「生物は、淘汰の過程で漸進的に改良されていくのではなく、淘汰を経ないで跳躍的に新種が生み出され、長期的に安定した環境において生息する」、あるいは、「生命の諸器官は目的論的世界観によってはじめて理解しうる」などの主張である。

こうした主張の中で問題となるのは、「自然は効率的で経済的なやり方で作動している」という見解であろう。オークローズ&スタンチューは、「余計なDNAの変異と保持」という進化中立説の説明を無視しているわけではない。彼らはこの説明が自然淘汰説を否定するものとみなして、さらに次のような考え方を発展させている。すなわち、生物は、ある一つの方向に一つの主題を展開する可能性を発達させてしまうと、今度はその下位分類において多様化を遂げる。これを「系統的分化」と呼ぶならば、ほとんどの生物は、系統的な分化によって、潜在的に可能な多様性を発現させていく。そしてその場合、系統的分化の多様性には構造上の制約があって、無限に展開することはない。系統的分化によって展開しうる形態は、現時点においてほとんど実現していると考えられる。生物は、新たな進化を求めて「浪費的な変異と選択淘汰」の過程を繰り返すのではなく、むしろ系統的な分化において、すでに経済的な仕方で進化を遂げている、というわけである。

 この考え方は、生物が余計な試行錯誤をしないとみなす点で、「デュナミスの美徳」を否定するものであろう。なるほど生物の形態の種類においては、すでに可能なバリエーションが出尽くしているのかもしれない。しかしこの考え方を人間の文化的営みに当てはめて、文化のバリエーションがすべて出尽くされている、と考えることはできるだろうか。あるいは、すでに系統的分化は完成に近づいていおり、新しい文化表現を試みることにはほとんど価値がない、ということになるだろうか。

オークローズ&スタンチューの反ダーウィニズム的世界観は、汎均衡論的な社会観と同様に、私たちの行為に対してすぐれた指針を与えていないように思われる。およそどんな振舞にも浪費や無駄がないというのであれば、私たちは行為の指針をえることができない。すべての行為が同様に経済的であるような世界(汎均衡論の世界)においては、不経済というものが存在せず、したがって「経済的」という概念が有効に用いられないからである。これに対して自生化主義は、「デュナミスの美徳」という倫理によって、潜在的な可能性を試行錯誤すること(=不経済なこと)にも意味が宿る、と主張する。オークローズ&スタンチューの反ダーウィニズムにおいては、すでに潜在的な可能性が系統的分化によって発現されている、とみなしているが、これに対して自生化主義は、系統的分化の未完性を主張すると同時に、あらたな種の進化を準備することにも意味が宿ると考える。社会の中には「無駄」がないのではなく、「無駄にも意味が宿る」というのが、「デュナミスの倫理観」である。

 

 

3.選択の三つの意味

 では、「無駄にも意味が宿る」ように振舞うというのは、具体的にどのような指針をもつことであろうか。無駄が有意味へと転換された事例として、市場経済における「選択の自由」というものがある。市場経済はこれまで、膨大な浪費(売れ残り)や膨大な無駄(不要な欲望を掻き立てる商品)を生み出す点で、非効率的であると批判されてきた。しかし市場経済は、計画経済と比べると、社会全体の進化論的な適応度を高めることに成功しており、この点において有意味なシステムとして認識されるに至っている。市場経済においては、なるほど私たちは無駄なことを選択するかもしれない。しかし、私たちが各自で選択することには、それ自体として大きな価値がある。おそらく、このような考えが人々のあいだに広まったときに、市場経済はシステムとして進化的な適応度を高めたと考えられよう。

 もちろん、市場経済にはさまざまな難点があるから、こうした進化論的適応を喜んでばかりはいられない。しかし私たちは、市場経済における「無駄の有意味化」というメカニズムのなかに、進化の要素を見てとることができるだろう。そして私たちは、こうした意味転換のメカニズムを応用して、「デュナミスの増大」がそれ自体として「有意味」になる社会を、あらたに構想することができるかもしれない。言いかえれば、人々が「選択の自由」において、デュナミスを高めるような選好をもつことを、制度的に支援することができるかもしれない。

ここで「選択」という現象を、社会的な過程として捉えてみよう。選択という言葉は、「チョイス」と「セレクション」の邦語である。一般に、「チョイス(Choice)」という言葉は、被支配者が自らの利益のためになす場合に用いられ、また「セレクション(selection)」という言葉は、支配者が自らの利益のためになす場合に用いられる。例えば、大学入試において受験生は、受験する大学を「チョイス」するが、これに対して大学側は、合格者を「セレクト」する。もっとも受験生は、すでに模擬試験の偏差値によって、あらかじめ合格可能な大学の範囲を絞り込まれており、その意味では「チョイス」の感覚をもたないかもしれない。また大学側は、自らが倒産の危機に晒されるという点では、受験生によってセレクトされる側にある、と言えるかもしれない。社会システムの観点からすれば、チョイスとセレクションはいずれも、システムが自らを再生産し、そして進化や成長を企てる場合の構造的な契機であり、システムが各々のアクターに与えた役割である。したがって問題は、システムが進化的な適応度を高めるために、どのようなチョイスとセレクションの割り当て方(編成)が望ましいか、ということになるだろう。

そこで「選択」を構造化した社会のモデルとして、次の三つの考え方を対比しながら考察を進めてみよう。すなわち、「自律的選択型の社会」、「バリエーション増幅型の社会」、そして「遺伝子複製型の社会」である[6]

 (1)「自律的選択型の社会」:各人が社会の中で自由に与えられた選択肢の中から、自らの意志によって物事を決めていくという社会は、近代主義が目指した一つの理想である。この理想は、自律という言葉によってもし「個人」の自律を重んじる場合には、「リバタリアニズム」の社会制度に至る。また自律が「集合体」の自律を意味する場合には、「集産主義」へと至るだろう。いずれの場合にも、自律的な選択という理念によって理想とされている事柄は、人間が自らの人生を「コントロール」することから得る快楽であり、また、自発的に振舞うことの道徳的な優位性である。

 しかしコントロールと自発性という二つの契機を、それ自体として価値あるものとみなすならば、私たちは次のような困難に直面するだろう。すなわち、選択においてコントロールと自発性を発揮するためには、私たちは、バリエーション(選択肢集合)の選択においても自律的でなければならない。例えばのどが乾いたときに、飲料水としてコカ・コーラを選択することは、すでにバリエーションの選択の段階で、飲料水の生産・供給者に依存した他律的選好形成をしたことになるかもしれない。言いかえれば、一見すると自律的に選択しているようにみえる場合にも、バリエーションの選択においてすでに他律的であることを強いられていることになるかもしれない。こうした他律性から免れて選択の自律性を獲得するためには、私たちは、バリエーションそのものを自律的に選択しうる社会を構想する必要があるだろう。しかしそのような理想を実現するためには、私たちはバリエーションの種類を、さらに広範なバリエーションの中から選択しなければならず、そのような選択は、論理的には無限に後退してしまう。自律した選択社会の究極的な理想は、すべての可能なバリエーションを自律的に選択して、その中から一つの選択肢を選び出すことであろう。しかしそうした選択は、「大文字の理性」を想定しなければ不可能であり、大文字の理性をもたない私たちは、「自律的選択型の社会」という理想をどこかで諦めなければならない、ということになる。

(2) 「バリエーション増幅型の社会」:しかし私たちは、自律的選択という理想を、別の方向に展望することができるだろう。バリエーションの生成に対して、批判的・意識的に働きかけるという実践である。このような理性を用いる社会を、「バリエーション増幅型の社会」と呼んでみよう。

私たちは選択に際して、バリエーション(選択肢集合)については完全に自律的に選択することができない。しかし、選択肢のバリエーションが、いかにして因果づけられているのかについて、たえず反省的な意識を働かせることはできる。先のコカ・コーラの例で言えば、私たちはのどが乾いたときに、これまでの「支配的な選好形成」を反省的に捉え返して、バリエーションのさらなる探索や、自らの選好形成の流動化や再編を試みることができるだろう。進化論的に発想すれば、自律的で合理的な選好形成がなされる社会とは、バリエーションが不断に変化し、そして多様化するような方向に向かうシステムに他ならない。バリエーションの増幅過程においてはじめて、バリエーションの他律性を実践的に克服することができるからである。そしてその場合の自律とは、支配的なものからの脱却であり、自分の選好形成と選択可能性が、たえず変化していくようなプロセスに身を置くことに他ならない。バリエーション増幅型の社会は、進化論的な意味での自律を可能にする社会である。そして私たちがバリエーションの増幅という実践によって「デュナミス」を豊かにしていくことができれば、それは各人の自律にとって意味があると同時に、ポスト近代社会に相応しい倫理となるであろう。

(3)「遺伝子複製型の社会」:バリエーションを増幅するためには、他方において、既存のバリエーションを継承していくという実践がなければならない。もしバリエーションがまったく別のものに変化するならば、それはシステムの進化論的適応度を高めることにはならないからである。

システムのバリエーションを維持するための企てを、ここで「遺伝子複製型の社会」と呼んでみよう。グールド以降の生物学においては、選択行為というものが遺伝子の継承にあるとされ、自らが「種」としてもつ遺伝子を次の世代に伝えることができた場合に「選択淘汰(セレクション)」がなされた、と考える。例えば、自然淘汰に対して中立的な抗体がその複製を生産することや、あるいは生命が全体として、DNA配列というものを太古の昔から継承してきたことを、「選択の成功」と呼ぶことができるであろう。また、働きバチが夏の暑い日に、自らの羽で巣に風を送るという行為も、ハチが「種」として存続するために必要な、遺伝子の仕業(セレクション)であるとみることができる。

ここで遺伝子とは、さまざまな次元で用いられる「継承物」のメタファーであり、「ミーム」や「ゲノム」といった用語によって表現されることもある。この考え方を社会システムの進化という問題に当てはめてみると、私たちは既存のバリエーションを継承すること(セレクション)によって、デュナミスの美徳を身につけると同時に、システム全体の進化過程を担っている、といえるかもしれない。例えば、「言語」の継承ということを考えてみよう。私たちは、前の世代から言語の文化を学習=複製して、言語を喋ることができるようになった場合に「デュナミスの美徳」を手にすることができる。というのも、言語を学ぶということは、たんに単語や構文を学ぶことではなく、言語能力を学ぶことであり、潜在的に可能な無数の組み合わせを学ぶことに他ならないからである。同様のことは、私たちが、伝統や慣習、あるいは音階や造形の言語といったものを学習=複製することにも当てはまるであろう。私たちは文化の複製において、文化の遺伝子が可能とする「能力」を体得するのであり、その能力は「デュナミスの美徳」として、進化の担い手を意味づけることになる。

そしてまた、遺伝子複製型の社会において理想とされる選択は、私たちがこれまで獲得してきたバリエーションの全体を、次の世代に伝えることであるだろう。進化的な適応の合理性は、現在の環境に最も適応した覇者の遺伝子を次世代に伝えることではない。あるいはまた、優勢な遺伝子を特定して、それを作為的に増幅することでもない。むしろ私たちは、さまざまなバリエーションを増幅して複製することによって、潜在的な脅威に対するシステムの適応度を高めることになるだろう。遺伝子複製型の社会において、一見すると劣勢と思われるような遺伝子を複製することにも意味がある。例えば、マイナーな文化を担い、伝承すべき文化の多様性を保持すること(政府の補助金をつぎ込むこと)は、それがいかに無駄で浪費的に見えるとしても、進化の観点からみて価値がある。

 以上、「選択」を構造化した社会のモデルとして、(1)「自律的選択型の社会」、(2)「バリエーション増幅型の社会」、そして(3)「遺伝子複製型の社会」というものを描いてみた。「大文字の理性」から脱却して進化論的に発想してみると、(2)「バリエーション増幅型」と(3)「遺伝子複製型」の社会における「選択」の実践が、有意義となる。もっともこの主張は、(1)「自律型の選択社会」を否定するわけではない。むしろ(2)(3)は、(1)の不完全性を進化の観点から補うことになるであろう。すなわち、私たちが自由で自律的な選択をするために、一方ではバリエーションの増幅を企て、他方ではそのバリエーションの継承を試みることが、すぐれた自律につながる、と考えられるであろう。ポスト近代社会における「自律」の美徳とは、「デュナミスの美徳」であり、それは支配的な選好形成に抗して、多様に分岐した文化を担うことに他ならない。一見すると無意味なようにみえる多様性の分岐には、実は進化論的にみて大きな意義がある。そして自生化主義は、そのような進化を条件づけるために、さまざまな社会政策を求めることになるだろう。

 

 



[1] 生物学とりわけ免疫学の観点からポスト近代の自己論を検討した労作として、Alfred I. Tauber, The Immune Self, Cambridge University Press [1994]を参照。また、ドゥルーズの著作『差異と反復』における「反復と差異の運動体」というものが、生物学における遺伝子の複製、バリエーション、そして突然変異による「選択と創造」の過程に相応することを、私たちは考えてみなければならない。

[2] 例えば、圧倒的多数の「利他的戦略(altruist)」、あまり少なすぎない程度の「しっぺ返し戦略(tit for tat)」、それとほぼ同数の「利己的戦略(egoist)」を出発点としてシミュレーションを行なうと、まず利他的戦略が激減し、利己的戦略が急増する。ところが、最初のうちは減少傾向を示したしっぺ返し戦略は、やがて利己的戦略との競争を制して、大多数となる。こうしてしっぺ返し戦略は、進化論的に支配的な行為となる。また、タカ派とハト派の進化ゲームでは、タカ派(Hawk)は、相手かまわず実際の戦闘をしかけ、自分が傷ついて逃げるか、相手が傷ついて逃げるまで闘う。これに対してハト派(Dove)は、脅しをかけるだけで戦闘はしかけず、相手が戦闘をしかけてきた場合には直ちに逃げる。この二つの戦略は、利得条件に応じて、進化論的に安定するものであるかどうかが決まる。

[3] 例えば「見えざる手」は、商品や経営戦略の多様化(バリエーション)を促進するとか、あるいは、潜在的に可能な生産技術や消費技術を増大させるということに関して、無関心であるだろう。ある意味で、進化論的安定性の獲得は、社会の衰退を意味する。それは新たな選択肢を抑圧し、試行錯誤による潜在的可能性の増大を志向しない点で、適応度を低下させてしまう。

[4] 「われわれは、自分では意味が分からない公式、記号、規則を絶えず利用し、それらの使用を通して、われわれ各自が所有しているのではない知識を利用する。われわれは、それぞれの領域でうまく行くことが証された慣習や制度を頼りにして、こうした常習的行為や制度が、つぎにはわれわれの文明の基礎になったのである。」(ハイエク「社会における知識の利用」『市場・知識・自由』田中真晴/田中秀夫編訳、ミネルヴァ書房、70頁)

[5] 松原謙一/中村桂子『生命のストラテジー』岩波書店[1990]176頁、参照。

[6] 選択の一般理論として、David L. Hull, Rodney E. Langman, and Sigrid S. Glenn, “A General Account of Selection: Biology, Immunology, and Behaviour,” in David L. Hull [2001] Science and Selection: Essays on Biological Evolution and the Philosophy of Science, Cambridge UP. を参照。また、Darden, L., and Cain, A.J. [1989] “Selection Type Theories,” Philosophy of Science 56: 106-129. を参照。